沿革・概要

土地改良区の沿革

 当改良区は、江戸寛文年間より用水組合を組織し、小貝川に堰を設けかんがいしていた受益面積2645.6haの豊田堰土地改良区と、昭和28年に干湿の害からの解消を目的として設立された受益面積2162.8haの新利根上流土地改良区が河内村の二重負担と豊田堰土地改良区内の事業推進を図るためそれぞれ発展的に解消し、昭和45年2月に合併された土地改良区である。
 合併前の組織構成は、豊田堰地区は、理事12名、監事4名、総代60名で施設の維持管理を行っていた。新利根上流地区は、理事16名、監事6名、総代60名により県営かんがい排水事業の推進を図っていた。
 合併後は、各地区の均衡と円滑な運営を図るため西部、北岸、南岸と分け理事各8名、監事各2名、総代各20名づつとし、円滑な運営と事業促進を推し進めてきた。
 平成18年度、経費の節減を図るため機構改革を行い理事15名、監事3名とした。

豊田堰の沿革

左:旧豊田堰(煉瓦造り)明治34年改築
右:現豊田堰 昭和52年3月改築

 旧豊田堰は茨城県龍ヶ崎市豊田町地先の小貝川筋合流点より1.0km~1.5kmにあり合併当初組合員4,480名を擁し、その目的は、沿岸の灌漑用水の確保並びに取水を容易ならしむる為の貯水堰であり、貯水量は満水時で、約200万立方メートルに達する。
 この豊田堰は同じ目的をもつ、小貝川筋上流の岡堰、福岡堰と共に、昔から関東の三大堰といわれ古い歴史をもっている。 豊田堰の起こりは今より約350年前の寛文5年、徳川幕府が新利根川を開削し、押付新田より霞ヶ浦に達する用水路を施行して民衆の利益を図った。
 しかし、水路完成により逆に沿岸にしばしば水害をもたらす結果となり、幕府は新利根川の水源を締め切らざるを余儀なくされ、寛文7年(1667年)幕府の命により御普請奉行、伊奈半十郎忠治が水源を締め切ると共に、此に代えて羽根野地先(利根町)に、長さ十八間・内法巾二間・高さ四尺の堰を設け、灌漑の用に供したのが始まりである。
 その後、堰はしばしば破損を受け修理に多額の出費を要したことにより、天保十年(1839年)堰を現在の豊田地先に移して依頼、明治14年まで、毎年非灌漑期に土砂にて、小堤防を以て築留堰を施行し、灌漑期が過ぎると之を切り流す方法をとった。
 この当時の材料費は、幕府より支給であり、農民は施行期間の無手当の出役のみであった。明治13年の大政奉還により、総て農民負担となった為毎年の出役及び莫大な出費の難儀から、明治14年に木造堰枠を設置し、さらに明治34年、永久構造物として煉瓦造りに改築された。構造は可動堰(10連結、敷高YP11.893m、延長25.6m)上流に洗堰(固定堰天端高YP5.5m、延長36.0m回転扉付)が設置され、これを土堤(天端高YP6.0m)で結んだアルファベットのZ形をなし、可動堰から洗堰までの距離は約250mにも及んだ。

現豊田堰の概要

 豊田堰は旧豊田堰に代えて、それから約150m下流に建設された堰である。
 旧豊田堰は明治34年に煉瓦造りに改築されて以来昭和52年3月まで、沿岸流域の灌漑用水の水源として、用水の確保並びに取水など多大の恩恵をもたらした。
 明治34年、旧堰が改築されて以来利根川、小貝川は幾多の計画高水量の変遷により高水流量が増大し、更に幾多の治水計画の変遷がなされ、現在河道沿岸の開発、社会情勢から治水及び河川管理上、旧堰改築の必要が生じ、昭和43年調査に着手し、現計画の決定をみたものである。
 新しく建設された豊田堰と同様に灌漑用水の確保、並びに取水を容易ならしむる目的をもち、洪水時に計画高水位(YP9.95m)から2.5mの高さにゲート引き上げ、計画高水流量を安全たらしむものである。
 構造は低水路(YP0.55m)にメーンゲート(スパン36.6m)にサイドゲート(スパン27.75m)四門の計六門からなり、総延長275mで河道全幅を可動堰とした。メーン及びサイドゲートは、鋼製ローラーゲートで洪水位を最高YP5.5mとし、メーンゲートの上部1.0mを超伏ゲートとし、小洪水に対して流量の調整を可能とする。堰地点の地質は粘り性土と砂層より成り、常陸台地の南辺部に広く分布する沖積層と、成田層に属する洪積層から構成されており、洪積層は比較的浅く分布している。基礎構造はこれら地質条件を考慮し、φ300mm~812.8mmの鋼管とコンクリート杭基礎とした。
 また施行順序は治水上の理由から、毎年11月から翌年6月半ばに至る。非洪水期間をもって小貝川を3ブロックと分け右岸より第1期として、昭和47年度より工事に着手、総工費27億円をもって昭和52年3月完成を見たものである。

柴崎堰の沿革

 地区の用水源たる新利根川の開削は、利根川の洪水を霞ヶ浦に分流させ、沿岸耕地の水害を軽減させんがため、寛文年間(1661年)徳川幕府の命により、間部若狭守が開削に当たり、当時工事費6,110両を以て完成したものであるが、沿岸一帯は平坦かつ低地にして、用排水施設は皆無であった。
 柴崎堰は、その創設最も古く元禄年間(1688年)の創始にして、当時は原木及びかや草根等を用い、堰本体とし僅かに用水の補給をはかっていたが、用水の絶対量不足は常習的な干ばつ被害をうけ、これにより寛政年間(1789年)新利根村柴崎字九軒地先に半永久的木造に改築した。
 ところが、かんがいの利便は一新して、農民の福利増進に寄与するところ大となり、以来維持管理等に幾多の変遷を重ね、明治41年4月水利組合法制定され、当時の柴崎、金江津両村のほとんどを組合地区と定め、柴崎堰普通水利組合を組織し、組合監理者は歴代の柴崎村長をあてたのである。
 その後、明治34年に至り改築される迄、本堰は多年にわたり農業経営の基盤とする耕地の発展に貢献したが、近年幾多の変遷を重ね、近代営農の合理化が叫ばれるに至っては、さらに高度の技術的改良を望む声が起こりつつあった。
 ついで昭和2年11月、県営として新利根川改良事業計画が樹立され、本堰を撤去し新たに揚水機を設置し、かんがい地域を拡大、現存の用水慣行を一新させるべく堰管理者に意見を求めたが、組合は今までの実績を鑑み現状維持を決し、実情をのべさらに本堰存置改築の答申した。
 しかし、たまたま昭和8年、9年に関東一円は未曾有の干ばつに見舞われ、周囲は被害を受けたが、本地域内は用水を確保し田植えを完了、干ばつを克服する事が出来たのである。しかし、本堰は永年にわたり使用したためその腐朽甚だしく、組合員相互間に改築を急ぐ声が起こり、早急な起工を県当局へ陳情すること幾度かに及び、当時の内務部耕地課において現地調査の結果、以後2ヶ年の水量調査の結果Y・P2.21mに達せば改築の要ありとの結論を得たのである。
 このようにして、その後水量の測定に努めたが、同9年5月12日夜半、不幸にも一瞬の中に堰は崩壊し、堰本体は流失、原型は全くその形態を認める事は不可能となった。しかも時期は用水の必要時にあり、地区内一帯はそのため枯渇し干害をうけ、耕地は亀裂を生じ得る惨状に至り、農民の恐慌は言語に絶するものがあった。
 事態の急を痛感した当時の管理者は直ちに組合に会議を開き、県へ報告すると共に一方新利根川改良事務所の応援を得て、新利根川に仮〆切を施したる結果、漸次水量増大し、田植えを完了するに至った。
 しかし、現存の施設のみでは農民の不安は去らず、県においても本堰の存置の必要を認め改築を諒解するに至った。ついで本堰は昭和12年1月起工、堰本体の改築を伴って南北両岸に揚水機を設備し、同年11月竣功の喜びを得た。
 その後、本堰はその重大な使命を発揮し沿岸耕地を潤し、永年の愁眉を地元へもたらした。 昭和56年8月26日小貝川高須樋管付近にて台風により決壊し、一円の水が一気に新利根川へ流入し、流木等により柴崎堰が堰き止められ崩壊に至った。同年県営災害復旧事業にて構築。事業費1億余円。